はじめに
私のブログは年を経るごとにどんどん理屈っぽくなってきてる気がしますが。。扱うエネルギーが深く膨大になるほど、比例して屁理屈も必要になってくるのだろう、という事にしておきます。(笑)
さて。今回から章を改めて、ぼちぼちと自分の72天使の事を書こうかな、と思っていますが、その前に、独白カテゴリーの総まとめ、締めくくりとして。。同時に、新しく始める為の序文として少し書きたいと思います。
「72天使パーソナルチャート」をご利用の方の中で、72天使の事をイメージして擬人化したい、直接交流したい、とご感想やご質問をくださる方が割と多いのですが、今回はそういうお話になると思います。
いわゆる、「72天使やハイヤーセルフとは実際どうやって交流するの?どんなことに気を付けたらいいの?」という話です。
私は基本的に、自分が経験してきた事しか書けないので、今回もそういうお話になります。が、最近「知識」としての、頭で理解し整理する為の情報が足りないな、解りやすく説明する為にももう少し情報は必要だな、と思って、しばらくの間、図書館に通って資料探しをしていました。
心理学方面では主にユングの本を探していたのですが、その中で興味深い本を見つけました。
今回は、自分の経験を言葉にする為に、この本に補強をしてもらいながら、書いていこうかと思います。
これは裏表紙ですが、この紹介文にピンと来た方は、一度読んでみてください。
「アクティヴ・イマジネーション -ユング派最強の技法の誕生と展開-」(老松克博・著/誠信書房)
著者はユング心理学の研究者で、臨床心理士であり、医学部の先生です。日本の医療現場でユング派の技法を実践している医師は少ないらしく、著者は日本では第一人者であるようです。(本が出版された2000年当時の情報です)
読みやすい本でした。内容がスッと頭の中に入ってくる。
というか、頷く部分が多すぎて「ああそうだよね。そうなんだよ。そうなんだよなぁああああ~~っ。。orz」という感じでした。(どんな感想だよ)
いや。。納得するところが多すぎてな。。。苦笑するしかない。←
どんなことが書かれてあるかは、ネットにも少しレビューが出ています。記事にしている人も居ます。軽く検索した所、本に書かれてある文章をそのままネット上で紹介しているような内容がほとんどでしたので、興味ある方は一度検索してみてください。
実際に本を読んでみたい方は、大きな図書館に行くと大抵は置いてあるようなので、図書館で借りて読む事をお勧めします。というのも、この本は既に絶版で、
中古本が、定価の10倍近い値段ついてるんですよ。(爆)
私は図書館でこの本を見つけて、借りて読み始めたのですが、1/3も読まないうちに、
これは買わなきゃダメだ。←
と思って結局買ってしまいました。。一番安い中古本探しまくって定価の4倍くらいのお値段で買ったんですけどね。。綺麗な本でした嬉しい。(笑)
その綺麗な本に、これでもかというくらい赤線引いて読んでました。こんなに赤線引きながら読むのは私にしては珍しい。
本の紹介は他サイトに丸投げしてしまいますが、私はこの本を読んで、改めて、自分が7年以上かけてやってきた事、書いてきた事が、既に心理学の技法として体系化されている事を初めて知りました。
以前、ユングの「赤の書」の事を少し書きましたが、私が旧ブログで書いてきた「星紡夜話(※現在は購読会員限定公開)」というお話が、私自身の「赤の書」に相当する事を改めて確信しました。あと、著者が「こういう場合は危険だよ」と書かれている内容と、私自身が経験して「これはヤバいな、これはやめた方がいい」と感じた部分が一致していたのも、嬉しいというか、やはりそうだったかと納得したというか、なかなか一言では言い表せない。(笑)
なんだか答え合わせをしているようでした。。。数年前にスピ系のワークショップを受けていた時も同じような感銘を受けましたが。
ただ、ユング自体は20世紀初頭~中盤にかけて活躍した心理学者であり、その時代の考え方(例えば男尊女卑の風潮とか)にも影響を受けているな、と思われる所があって。。私は読み進めるうちに、ユングの思想を全部を丸ごと「今」に活用する事は出来ないな、と思いましたが、この本の著者も同じ事を本の中で語っています。
著者は医学部の先生なので、スピリチュアル的な内容を心理学的な観点で分析的に書かれていますが、スピが分からない人にも誤解を招かないように、慎重に言葉を選んで書いているようにも感じます。
この記事は「アクティヴ・イマジネーション」の本の紹介が目的ではないのですが、私がやってきた内観作業がほぼ「アクティヴ・イマジネーション」と言っても差し支えないものだった事が判ったので、本に書かれている事と内容が被るかもしれません。
参考文献による検証
私がやってきた「内観」の経験則を書く前に、まずは上述の本の中から、「アクティヴ・イマジネーション」を実践するのに向いている人の特徴を引用します。
—————————————
いろいろなところでユングやその他の分析家があげているアクティヴ・イマジネーションの適応は、次のようにまとめることができる。
⑴ 無意識がファンタジーとともに溢れてきているのが明らかな場合。これは非常に知的、論理的なものの見方をする人に特に多い。
⑵ 夢が多すぎるとき、その数を少なくするために。
⑶ 記憶に残る夢が足りないとき、もしくは夢の内容が理解しがたいとき。
⑷ ある人が説明のつかないものの影響を受けているとか、一種の呪いの下にあるなどと感じている場合、あるいはそのように見える場合。もしくはガラスの衝立のようなものによって遮られているかのように思われる場合。以上のようなことは、とりわけ陽性、陰性のインフレーションが影響を及ぼしているときに多い。
⑸ 生への適応が障害されているとき。
⑹ 同じ落とし穴に何度も何度も落ちる場合。
(中略)
一般的には病態が神経症水準か一部の境界水準以上のケースをアクティヴ・イマジネーションの適応と考えておくのが無難であろう。もちろん人生の意味を探究したいという健常者が最適である。
—————————————
私の場合、上記のほとんどの項目に当てはまります。
インフレーションというのは、例えば極端に「陰か陽か」「光か闇か」どちらかの性質に偏り過ぎている状態だと私は理解しています。
本に書いてある通り、この技法は「自我」(私の言葉でいうと「地上にいる私(顕在意識)」)が、無意識の力に負けないくらいしっかりと意思決定できる状態でないと扱えません。「無意識層から、”高次”からもらった指示通りに動くだけ」ではダメなんです。
現れ話しかけてくる「見えない次元」のイメージに対して、「地上の私」は対等な立場で渡りあえなければならない。と私は常々思っていますし、
「ハイヤーセルフと地上の私は対等なんだよ」
という表現で、どこかで書いたような気がするんだけど、書いてなかったかな。
顕在意識と潜在無意識の力関係(エネルギーの質量)が対等でなければ、存在のパワーバランスが崩れて精神崩壊する。。というと、ものすごく簡単で乱暴な言い方ですが解りやすいでしょ。
でも、ちょっとスピの勉強をしている人なら解ると思いますが、潜在無意識って宇宙のように膨大で、それに比べて顕在意識(表層意識)なんて豆粒みたいなものだ、と、おおかたの人は習っているはずなので、この話を聞いたら「とんでもない、そんな事は不可能だ」と思われるだろうと思います。
確かに「無意識」は膨大です。広大で膨大なエネルギー質量で「地上の私」を圧倒してくる。だからこそ、精神崩壊も辞さない程の、死ぬ覚悟がいるくらい大変な作業なんです。
この技法って、頭の中で「もう一人の自分(人格)」が勝手に動いて話しかけてくるように見えるし、それらと向き合っていると精神的苦痛も伴うので、一見すると統合失調なのではないかと思われがちですが、私は違うものであると感じています。
上述の本でも、違うものとして区別されていました。本の中では、これらの体験の事を「精神病類似とも言われる」、と書かれています。
私自身はこの事を、「精神病と似ているが、たった独りで、気が狂う寸前の所へ赴き、己の無意識次元で出会う様々なイメージと向き合い対決して通過しなければ”目的地(自己の神性)”へ辿り着けない」から「病気になる手前ギリギリの危険な道を通る羽目になる」という意味で、私的にはこのアクティヴ・イマジネーションを使った内観法は、生命の樹のダートの上のパスを歩くようなものだ、と感じています。
私やスピ系の人が言うところの「ハイヤーセルフ」や「天使」というものを、ユングは「第二人格」と呼んでいます。
日常生活を経験している顕在意識が「自我(第一人格)」なら、無意識層を含む心全体の”中心点”が「第二人格」だそうです。
アクティヴ・イマジネーションのような形で内観をする際は、「顕在意識である地上の私(ユングの言う所の自我)」以外の「無意識層にいる天使やハイヤーセルフ、内なる神性(ユングが言う所の第二人格)」が存在しているという「設定」を自覚し受け入れている事が大前提になります。
で、その「ハイヤーセルフや内なる神性(第二人格)」が存在しているのを感知している状態が「病気」ではなく、それら無意識層のイメージ達(第二人格)と「対等に渡り合えない状態」「(自我が)振り回されている状態」が精神疾患であり、そういう状態の事を「統合”失調”」と言われているのだと私は認識しています。これは私の理解の範疇で書いていますが、「見える事、聞こえる事」自体を病気と判断する医師もいるかもしれませんので、ユング心理学を詳しく知らない人には安易に話さない方が安全かもしれません。フロイト派の人はユング心理学は嫌いかもしれませんし、現在のところ、「霊感」も精神医学界では「病気」とみなされています。その点を踏まえた上で相談や調べものをしないと、予期せず心に傷を負う事になると思いますし、理解のない医師から「向精神薬を一生のみ続けろ」と言われてしまう可能性もあります。薬は長年飲み続けると副作用で余計な精神疾患を併発したり、薬物依存に陥る可能性も出てきますので注意が必要です。
くれぐれも、自分の心を守る事を第一に行動して、ご自分を大切にしてください。
※ここでいう「自我」はエゴ(我欲)の事ではありません。
あと、上述の本の中では、「オカルト(私の言葉では四次元、幽界)に対するような気持ちで行ってはならない。アクティヴ・イマジネーションは降霊術ではない。自己の無意識の中へ入り込み、そこに現れる自分自身と対決する事だ」と断言されています。
私の感覚では、「霊感」と「直観」は全くの別物です。(※これについては後述します。)
私自身は、上の次元に繋いだ際には、他人を相手にするのではなく、自分自身に向き合うのだ、と思っています。私は「見えない次元(特に集合無意識層)」に他者が存在する事を否定しませんし、確実に存在していると実感しますが、あくまでも、「内観」の目的は「自分自身の内側の探究」だから「上の次元(無意識層)」で他者と関わる事を目的にすべきではないと思っています。
「アクティブ・イマジネーション」は、医療現場で精神療法として使われる事もあるらしいですが、先ほど本から引用したように、本来は精神健常者が哲学的探究を行う為の技法です。
健常者でないと、上の次元(無意識層)で出会う存在(イメージ)とどう向き合うのか、自分が持つエネルギーをどう扱うべきかの判断や決断が難しいのではないか。というのが私自身の実感です。
いわゆる「アストラルトラベル」や「ヘミシンク」の技法なども、「アクティヴ・イマジネーション」と同じ基準で扱うのが望ましいと私は思います。
でも、実際にスピリチュアル業界で「アクティヴ・イマジネーション」を実践しているヒーラーやセラピストは、おそらくほとんどいないと思います。ざっと検索しただけですが上がってこない。むしろ、私がやっている事を見ると訝しげに否定するヒーラーさんが大半です。
魔術を専門に扱う業界ではこの技法を知っている人がいるはずだと思うのですが、スピ業界を通して一般に広まらないのは、「アクティヴ・イマジネーション」が精神的危険を伴う、リスクの高い技法であるからだと私は思います。
私は「72天使ワークブック」を書く際に、出来る限りサイキックな技法は載せないように心がけました。私が思っていたサイキックな技法=アクティヴ・イマジネーションだったわけですが、私自身はこれを経験した結果、
自分が体験する分にはいいけど、人様には絶対おすすめできない。
と思ったのです。だってこんな苦痛を伴う危ない方法を、お金出して買ってくれる人に安易にお勧めできませんよ。だから載せたくない、と。
ブログのご感想をたまに頂きますが、「見えない次元にアクセスする事は楽しいだけでなく、危険な事も沢山あるのが分かった」と仰る方が大半です。それを解って頂けるだけで、私としては充分です。
それでも、私がこれまでブログで書いてきたような事を経験したいと思われる方は、上記で紹介した「アクティヴ・イマジネーション」の本を、一通り最後まで読んでみてください。本を読んだ後で、実際にやるかどうかを決めるのがいいのではないかな、と思います。
本にはアクティヴ・イマジネーションの実践方法も書いてあります。他に、クンダリニーやマンダラについても触れられています。
本題
ここからは、私自身の経験則です。私が実際に内観を経験して感じた事を書いていきます。なるべく私自身の言葉で書くように心がけます。言葉足らずになるかもしれないし、先ほど紹介した本の内容と重複する部分もありますが、自分の言葉で、自分の経験してきた事を大事にして書いていこうかと。
「アストラルトラベル」というのも、物質世界(三次元)以外の次元に意識を飛ばし接続する方法の一つなので、この記事に書いた事が当てはまると思います。アストラル層というのも人間の無意識層の一部分です。なので、「見えない次元」に関わる人、関わりたいと思っている人に向けて、少しでも参考になればと思います。
この記事に私が書いた事と、「アクティブ・イマジネーション」の本の内容を照らし合わせてみるのも面白いと思います。興味ある方はどうぞ。
久しぶりに長文を書きました。長くなりますのでお時間ある時にでもどうぞ。
・決して遊び半分でやってはいけない。
これは本当に、生半可な気持ちで「見えない次元(無意識層)」に関わると、思いがけず心的外傷を負う事もありますから興味本位では絶対にやっちゃいけないと思いました。遊びでやる事じゃないんですよ。私は遊びでやっていたわけではないですけどね。(笑)
私が「イメージング」を始めた理由は、抑鬱を患った原因を探る為でした。なぜ自分が抑鬱になったのか、どうしても知りたかったのです。
私が抑鬱を根本的に治したいと思って、通院する以外にも方法がないかと模索していた頃、遊びのような感覚で、集団で「イメージング」を活用した「アストラルトラベル」をしているスピリチュアルグループと、ネット上(招待制コミュニティサイト)で関わりました(SNSでの交流のみで、実際にメンバーと対面で会ったことはありません)。そこでは、アストラル層で他人と待ち合わせをして他人同士が交流を行う、という形の集団瞑想が行われていました。最初は楽しかったのですが、関わるうちにどんどん苦しくなり、馴染めなくなりました。
私はこうした交流を続けるうちに、「これは他人と一緒にやるものじゃない、自分ひとりで自分に向き合うものなんだ」と思うようになりました。何故か「これは違う。これでは意味がない」と感じていました。多分「私にとってアストラル界における他人との交流には意味がなかった」んでしょう。このグループに関わる人達の考え方と、私の考え方は真逆だったのです。
このスピリチュアルグループに関わっていた間に共感能力(エンパシー)が開花し、そのグループに属する人達の、一見仲が良さそうな交流の下に隠れていたドロドロした感情が自分の内側に流れてきた時に、私はそのグループから距離を置く事を決意しました。そうしないと精神の均衡が保てなかったのです。
そのグループから離れた事で、私の心は静かになり、再び自己の内側を見つめる事に意識を向けられるようになりました。
でも本心では独りになるのが寂しかったのです。だからその分、イメージを書き留めたものをネットで公開し続ける事で活力を得ていました。
一人でも二人でも、どこかで誰かが見てくれているなら、それが励みになる、という気持ちでした。
そうして原因を探るうちに、「過去生」へとたどり着いてしまったんですけどね。
私が「自己の神性」に辿り着けるようになったのは、その「過去生」に現れている「トラウマ」を癒しながら乗り越えた後でした。
・見えたり聞こえたりした事はすぐに記録しておく。
見たり聞こえたりしたことを、脳裏に繰り返し反芻するように記憶する癖をつけています、私は。それを毎日繰り返し続けていると、無意識層での出来事が顕在意識に残りやすくなり、記録するのも楽になります。寝ている間に見た夢はこの方法でほぼ詳細に覚えていられるようになりました。
けど、起きている間に見たり聞いたりする「イメージング(内観)」の場合は、それでもすぐに書かないと色褪せてしまったり、大まかな筋は覚えていても詳細が分からなくなってしまいます。
私は記録媒体を常に持ち歩いています。昔は小さなノートやメモ帳でしたが、最近はもっぱらスマホやタブレットです。後でPCに転送して編集するのが楽なので。
傍から見ると、普段の私は家事をしつつ、合間にスマホをいじって何かを打ち込み、散歩の途中で立ち止まってはスマホに何かを打ち込み、ついでに風景写真を撮り、PCでブラウザゲームをしている途中でPCのメモ帳に何かを書き込んでいる。。という。。何してるんでしょうね私。作品のプロット集めですかね。(笑)
日付と時刻を細かく入れておくと、後で見返した時にいつ何があったか具体的に状況が把握できます。これが見えた時、リアルでは何をしていたか、とかね。
書くこと自体がグラウンディングになります。見たり聞こえたりしたものを、物質的に形に留める事でそれらのイメージは地上での具現化へと動き出します。アファメーションの原理に似ていますね。「イメージの具現化」は生命の樹ではイエソドが担っている性質です。
書いたり形にする事は、現実世界(三次元)をしっかりと生きていく為にも必要な作業です。
見えたものを「自己表現」や「創作物」として表現しないとどうなるかというと。。あんまり言いたくないですが、本当に精神病への道を辿る可能性が出てきます。例えば、「あらぬ方向に視線を向けて空想の中に浸ってるだけで日常がおぼつかなくなってる人」って気持ち悪くないですか(※差別の意図はないです)。。という表現をすると、「見えたものを書かない、形にしない」という状態がどんなものなのか、何となく想像がつくと思います。
私は最近は聞こえる方が多いので、どうしても文章での表現になりがちですが、映像で見える事もあります。映像で見える人は見えたままのイメージを絵や創作物として表現する事も出来ます。描いたものを改めて見つめてみると、そこから気づきを得る事も多いです。私も絵を描きたいので、遅くなっても絶対形にします。(宣言しないとやらないから私(笑))
・イメージはある日突然動き出す。
実際に、どんな風にしたら「イメージ」が動き出すのかを説明するのは難しいです。
私の場合は、断片のようなイメージが初めて動き出したのは中学生の頃です。それまでは記憶の断片のように映像が頭の中に浮かび上がっては消えるだけでしたが、動き出したのはある日突然で、それまで断片でしか見えていなかった女の子(自分と同世代に見えた)が、透明のガラスの壁を突き破って向こうからこちらへやってきた。叩き割ったのではなく、ガラスの方が自然と割れて、私の中にいた女の子がこちら側へ(無意識層から顕在意識側へ)飛び込んできたように見えましたが。
と、見えたものをそのままお伝えするしかないです。(笑)
その頃は「見える」事の方が多かったです。直観の方が強く働いていたのかな。今は「聞こえる」事の方が多いので霊感や共感能力に意識が向きがちになってるようですが。「見える」方の直観を鍛えた方がいいのかなぁと、最近思っています。「聞こえる」方の霊感は雑念や外からの雑音の方を多く拾ってしまうからです。
・記録したものは公開しない方がいい。
さっき書いた事と矛盾するようですが、イメージングを伴う内観作業の最中は、出来る事なら親しい人にも、記録したものを見せない方がいいと思います。自分が感じたり見えたり聞こえたりしたことを、他人に否定されてはいけないんです。
何故なら、この内観作業(イメージング)は、自分だけのアイデンティティを掴む為に行うのであり、「自己確立」の為の作業であるからです。
自分の価値観形成に他人を土足で踏み込ませるような隙を与えるのはやめた方がいいです。
自己の神性に辿り着いて、自分の軸を完全に掴んだ、と思ったら、それを自分だけの「神話」として形にし、物語や絵画などの「芸術作品」として公開するのは良いと思います。「創作物」としてなら、見てくれる人にも楽しんでもらえると思いますから。
でも、その途中の過程で自己確立を妨げられるような無防備な公開はしない方が安全です。私が言うのもなんですが。(笑)
それでも公開しながら(誰かと内容を共有しながら)内観(イメージング)作業をする場合は、個々人の価値観の相違によって傷を負う事や、心の穴(欠如)を補う為にネガティブなものを引き寄せてしまう事、内容を共有する相手とは共依存に陥る可能性がある事を覚悟の上で行う必要があります。(私が「共依存」と呼ぶ状態を、ユングは「転移・逆転移」と呼んでいます)
「共依存」にもう少し加筆します。
さっきは否定されるパターンを書きましたが、肯定や好意を持たれる形で、内観作業している人の内面の世界に自分も参加したい、入り込みたい、と思う人もいます。これも非常に危険な行為です。内観作業に混乱が起こり、本来の目的から逸れてエゴを肥大させてしまったり、相手と自分の区別がつかなくなります。なので、内観作業をスムーズに行う為にも見えたものを無防備に公開する事は避けた方がいいです。
公開するのなら、完全に自分の神性を掴んだ後、「完結済みの作品」として、改変できない形で、他人が入り込む隙が無い形で発表するのが良いと思っています。
・自己の神性と繋がりを持とうとする際は、絶対に第三者(自分以外の人や存在)を関わらせない。
間違ってもアストラル界にソウルメイトやツインソウルを探しにいこう、出会えたらいいな、とは思わないでください。私もこれで失敗したから。(笑)
何度も繰り返しになりますけど、自己の中心から逸れて外界(集合無意識)と接触することは自己内観ではないです。それは単なる依存なのです。
「自己の神性」に向かって「自己の存在の内側」へ潜っていっても、必ず外界との接点に遭遇します。自分以外の存在が沢山集まって形成されている集合無意識(アストラル界)という場所に辿り着きます。自分自身もその集合無意識を形成する一員なのでそこを避けて通る事は出来ません。
そこで様々な派閥やソウルグループの人達に出会うけれど、でもそこに留まって安住してしまうと自己内観は進みません。
自己の神性と繋がりを持つ為には必ずそのグループから抜け出し、他人との繋がりを自ら断って、一人で先へ進んで行くことになります。これも私の経験から書いています。
一度は離れても、後で再び戻ってこれます。でも、集合無意識(他人が沢山いるアストラル界)には「私の真実」はありません。自分以外の存在をツインだと思って接していたとしたら、そこで一度別れなければなりません。
自分にとって本当に必要な相手ならば、いつか必ず「再会」できますよ。
・第三者とのすり合わせや正確さの検証は不要。
「これで合ってるかな?私が見たものは間違ってない?」と誰かに検証してもらう必要はありません。これをやると内観作業にならないんです。
「見えたものが正確かどうか」が大事なのではありません。見えたものが、自分にとって何を意味しているのか、何を象徴するものなのかを検証する方が大事なんです。
せっかく見えたり聞こえたりしたものに第三者を関わらせると、単なる「連続小説やドラマを作るだけの作業」になってしまいます。
あと、これが一番の弊害なのですが、第三者とすり合わせをしたり検証を頼んだりすると、他人の価値観が自分の存在の中に混じって混乱してしまい、せっかく見えたイメージを否定する事になります。これは自己否定に等しいです。他人を関わらせる事は内観による自己確立作業(自分だけの真実を掴む作業)の弊害になります。
内観で獲得できるのは、自分の為の自分だけの「物語」です。ユングはこれを「神話」と呼んでいます。それらは、「自分は何があってもこれだけは信じて生きていくことが出来る」という「自分の価値観が形として表現されたもの」です。
第三者とすり合わせて辻褄合わせをすると、単なる共同創作物になってしまうし、誰かひとりの「真理(自己の神性)」を見習って「みんなもこんな風にしましょう。この人の言う通りにしましょう」と広めて支持者を集めてしまうと「宗教」になってしまいます。
そもそもイメージを伴う内観の手法は危険な方法だから、危険なものを教祖一人に背負わせて、教祖に追随する人達は危険を冒すことなくその恩恵にあやかれるようなシステムを作り上げたのが宗教だ、というのが私の認識です。
それらはいずれも「私の真理(自己の神性)」ではないし、どちらも共依存なので、他人の神性に頼っていては各個人が自分だけの神性(真理)を掴む事は出来ないし、結果、自己確立できず個々人の意識や魂の成長(練度)が遅くなります。
あくまでも、自分が見たり聞いたりしたものに対して何を感じたか、何を思ってそのイメージに対応したのか、その時の自分の心の動きを大事に扱い検証してください。
イメージで見えたものは「象徴物」に過ぎないという事を忘れないようにした方がいいです。検証をするなら、その象徴物が自分の存在の中の何を表しているのかを検証してみてください。「男に見えるから」「女に見えるから」「天使に見えるから」「悪魔に見えるから」ではなく、その姿や雰囲気が自分の何を体現しているのか、「何故そのような姿で見えるのか」を考察してみてください。
そうそう。以前、72天使で女性名になっている天使が、男性の姿に見える、というご感想を頂いた事がありました。そんな風に見える事は間違いではありません。
その天使がインカネーション・エンジェルやガイダンスガーディアンの場合は特に、「自分の地上の性別と真逆の性別に見える法則」が働くのではないか、と私は考えています。私のインカネーションとガイダンスガーディアンは男性名で男性に見えるので、クライエント様から言われるまで気づきませんでした。でも私、たまに女性名のインテレクトが男性に見える時がありまして。。女性名なのに男っぽい性質なのでそうなるのかもしれませんがまだ考察中です。他にもそういう人がいらっしゃったら、一言教えて頂けると嬉しいです。ご報告いただけると増補版でお伝えできる内容も増えます。(笑)
今のところは、72天使の名前だけにこだわらず、見える通りに受け止めればいいと考えています。「男性・女性」に見える理由が、その人の考え方や感情の中にある場合もあります。
その天使がどのセフィラに属しているかに関わらず、女性に見える場合はその天使の峻厳柱寄りの性質が強く出ているのかな?、男性に見える場合は慈悲柱寄りの性質が強い天使なのかな?と考察してみるのも一つの手です。
72天使一人一人の性質については、また別記事で書けたらいいなと思ってます。
・自己存在の最高次(神性)をイメージとして捉えるには膨大なエネルギーが必要。
本当に自分の内側だけに向き合い、自己の存在の高次に辿り着こうと思うと、相当な集中力を要求されます。
単にイメージを見るだけなら、そんなにエネルギー要らないんです。
私は、日常生活の中で、家事をしながら、歩きながら、何かの作業をしながらでも無意識層に繋がっている事が多いですが、この状態だと、「集合無意識層」には容易にアクセスする事は出来ても、「内なる神性」まで辿り着くことは難しいです。この方法で辿り着けるのは、せいぜいアストラル界のてっぺん辺りまでです。それではただ、三次元の人間関係を「見えない次元」に持ち越しているだけです。
けど、「無意識層に現れるイメージに対して、自我が能動的に関わろうとすると」。。私の言葉で言うなら、「地上の私」が「自己の神性」と対等に渡り合おうとすると、相当エネルギーを消耗します。長時間やっていると日常生活を送る体力まで奪われます。これは私自身が実際に体験した事です。
高次のエネルギーは本当に微細なものなので、「地上の私」がそれを捉えようとすると、相当なエネルギーの一点集中を要求されます。
私が「自己の神性」に直接繋ぐときは、静かに座って、見聞きしたことを書き留める以外の作業は何も出来なくなります。
私が初めて自己の神性の頂上にいるラファに繋がった時は、5分くらいしか接続していられませんでした。この前久々にラファ(私の最高次の神性)に繋いで話をした時は、10分~20分くらいで集中力が切れてしまいました。私は性質的に人より集中力がある方だと思うのですが、くたくたになります。
本気でイメージを扱う内観をやってる人は、ものの数分ですさまじく体力(集中力)を消耗します。
ハイヤーセルフよりも高い次元である「自己の神性(真理)」にアクセスできるのはほんの数分、しかもいつでも思い通りに辿り着けるものではないので、意識して繋ごうと思ってるのに繋がらない状態でもガッカリしないでください。必要な時には必ず繋がりますけど、それ以外の時には繋がらないという感じです、私の場合。
その代りにハイヤーセルフや内なる天使達が伝達役として存在していますので、普段は6次元のハイヤーセルフと一体化(統合)できていれば充分です。生命の樹で例えると、「しょっちゅうケテル(自己の神性)に繋がれるわけではない。ティファレト(ハイヤーセルフ)に常に接続(統合)できていればそれで充分。ティファレトからは必要な時にどのセフィラにも行く事が出来るのだから」と言い換える事ができます。
それでも、少し「自己の神性」に繋がっただけでも沢山のヒントや創造的アイデアをもらえます。サインが降りてくる時って、本当に一瞬でしょ。ほんの一瞬で膨大な量の情報が降りてくる。降りてくるのはほんの一瞬だったのに、書き留めるのに何十分もかかったり、絵にするのに何週間もかかったりします。そんな感じで良いんです。
見る方が得意な人、聞く方が得意な人、色々ですので、その人の得意な分野で高次に接続すればいいだろうと思います。
・無意識層に現れるものと対等に渡り合う為には訓練も必要。
具体的には集中力と判断力と決断力を養う訓練が必要です。
私の所感で言わせて頂くと、
しっかりと「地上の私」が「こうしたい」という意図をもって、それだけに集中して無意識層にアクセスしなければ、「自分の課題」と「外側の現象(念)」に振り回されて、「内観」どころではない状態に陥ります。
普通、しっかりと自己の存在の内側にだけ意識とエネルギーを向けて集中していれば、自分以外の外側の声は聞こえないんですよ。周りでどんなに酷い事を言われていたとしても、ネガティブな念を飛ばされていたとしても、「自己の存在の中心(内なる神性)」にだけ意識を向けていれば、自分の存在の外側の事は何も見えないし聞こえないし、ダメージも受けない。微かに聞こえたとしても、心的ダメージは皆無なんです。
これは私自身が経験した事なので断言します。
言い方を変えれば、自分以外の存在の姿が見えたり声が聞こえる状態は「内観」ではない。
それは「霊感」や「共感能力」ではあっても、「内観」ではない状態です。
霊感は究極のエゴサーチだ。と私は思います。他人の存在を感知し、私に対して何を思っているのか、そこで誰が何をしているのかを知るのには非常に便利な能力です。自分の周囲に誰の念が近づいてきて私に何を言っているのかが聞こえたり、何を仕掛けてきたのかが見えれば、SNSで自分に対する噂話をエゴサーチする必要なんてない。(笑)
でも、それでは自分自身に向き合っているとは言えませんよね。意識が完全に自分の外側に向いていますから。
上でも少し書きましたが、他人の存在を感知する「霊感・共感能力」と、自分の存在の内側を探究する「内観・直観」は、別の能力だ、というのが私の実感です。
これは私の実感ですが、霊感や共感能力で感知できるのは、せいぜいアストラル界(5次元)辺りまでです。それ以上の次元(コーザル界より上)には自分の魂の記憶が眠るアカシック、ハイヤーセルフ、自己の神性が在るわけですが、そこへ辿り着く為には「直観」に頼るしかありません。
他人の声が聞こえたり、他人の姿が見えている状態では、自己の最高次の神性にはたどり着けません。
私の感覚では、霊感や共感能力を超えた先に直観がある感じなのですが、感じ方は人それぞれかもしれません。
でも私はそういう理由で、「内観(イメージング)は一人でやるものだ。他人とパートナーを組んで仲良く手を取り合ってやるものではない」と言っています。。言ってるくせに自分も外の世界(アストラル界)に逃げて遊んでたので人の事は言えないんですけどね。←
そう言われても自分と他人の区別が難しい、と思う事もあります。「これは私の存在の一部なのか、それとも赤の他人なのか」その区別をつけようと思ったら、多少の訓練や慣れが必要になってくるだろうと思います。
ただ、必死になって自他を区別しようと分析するのは逆効果です。詳しく検証しようとすると逆に思考が混乱する事もあります。
「内観する時は脇目もふらずに自分の内側にだけ入っていく」と、しっかり決意して「意思決定しておく」ことが大事だというのが私の実感です。だから、雑念があるとダメなんです。誰かに助けてほしい、手伝ってほしいと思っているとダメなんです。そこに他人が入り込む隙が生じます。「真理(自己の神性)への道は独りで往く道」なんです。人それぞれ現れるイメージは違いますし、人それぞれの心的過程を経て辿り着くものだから、真理(内なる神性)に辿り着くまでの過程を一つの型にはめ込んで、「みんながこの型通りの道を進めば辿り着けるよ」と言う事は出来ない。だから「真理への道はひとつではない」のです。やるなら最後まで独りでやると決意しておくことが肝心です。
コンプレックスが強かったり、心配事があったり、他人の目が気になったり、噂話を気にしていたりすると、意識が自分の内側から外側へ逸れてしまいます。
これは言い方を変えると、「霊感(他者を感知する能力)など無くても内観(イメージング)は出来る」という事ができます。
むしろ無い方がいいのかもしれません。自分の事だけに集中しやすくなるのではないかな。私はどちらかというと霊感がある方なので、全く霊感が無い人の事は分かりませんけれど。
・「地上の私」がどうするかは「地上の私」が決める。
意思決定の話が出たので追記します。
上の次元で起こった出来事に対して、自分の意志で判断し決断する事が要求されます。ハイヤーセルフの言いなりではダメです。ハイヤーセルフから言われたことに対しては、何故そうしなきゃいけないのか、と私は何度もしつこく自問自答して納得するまでは動きません。なので、ハイヤーセルフからは頑固者だとよく言われます。(笑)
ただ、エゴに基づいて反発するのではないです。「ハイヤーセルフ(無意識)に言われたからやるんじゃなくて、「地上の私」がやりたいからやるんだ」という感覚を要求されるという事です。これは「無意識がやりたい事と顕在意識がやりたい事」を一致させて、ハイヤーセルフと地上の私を対等にしていく作業です。
・「ツイン(自分以外の他人)と一緒に高次に辿り着く」という発想は内観には必要ない。
これは「間違ったクンダリニー上昇」であると言えます。
「二人で一緒に辿り着ける境地」というのも、確かにありますけど、その境地に辿り着く前に、
まずは自力で、独りで「自己の神性」に辿り着いておく必要があります。
。。って書いた途端にハートチャクラから変な笑いがこみ上げてきたぞ畜生。。面白くなってきたぜ。。。すみません急にワクワクしてきただけです。←
大好きな気の合う人(ツインソウルだと思っている人)と高次の世界に昇り詰める境地に辿り着く前に、あらかじめ独りで「自己の神性」を掴んでおく必要がある。
「これが正しいクンダリニー上昇です」といって、私の「内なる神性」であるラファが見せてくれたものが、それでした。
。。いくら自分の神性とはいえ、
「自分以外の”ツイン”は今の貴女にはまだ早いですよバカタレ。あなたはまず私(自己の神性)と一つになりなさい。外側のツインはその後です。(意訳)」
とか言われた日にゃぁ。。orz
つい最近まで、すっかり外側の出来事に振り回されていた私は、
ハイすいません初心をすっかり忘れておりました申し訳ございませんでした。
と言うしかない状態でございました。orz
これ実は「星紡夜話・新章」を書いていた当時、ソラムにも言われた事なんだよねぇ。。やっぱり「真理」を知ってるよあの人は。。(苦笑)
クンダリニーは、「自分の存在の内側」で起こる現象です。
本当は他人と二人でやるものじゃないんです。
クンダリニー上昇は、私(顕在意識)と、私の内側に居る「神性」(潜在無意識)との間で起こる現象です。
他人とやると泥沼の愛憎劇が待っていますよ。
クンダリニーに関わる際には、それだけは知っておいた方がいいと思って書きました。
で、「私と一つになりますか?」という流れでクンダリニー上昇を見せてくれた私の神性は、その実演の時にちゃっかり地上の私にアンカーフックを取り付けていったのでした。(爆)
ええ、まあ、自己の神性と一体化連携できたのでいいんですけどね。
初めて自分の高次に繋ぐ時って一度じゃなかなか顕在意識が安定しなくて、何度も同じことを繰り返してやっと連携できる感じだけど、一度掴むと再接続は一発で済むね。←
(※2022年2月20日追記)自己の神性やハイヤーセルフが自分の顕在意識にアンカーフックを取り付けていくことはありません。自分自身の高次であればフックやコードで繋がなくても連携できるからです。他人の意識が混在してマインドコントロールを仕掛けようとしている時にこういう事がよく起こり得ます。何かを仕掛けられた際はまず他人の干渉を疑って契約解除・ブロック除去をしてください。
もう一つ書いておきたい事があります。
私はユングとは違って、「自分を物質的に支えてくれるパートナー(法律上の配偶者)」と、「内観を進めるにあたって支え合う為のスピリチュアルなパートナー(肉体関係を伴う愛人)」をわざわざ分けて持つ必要はないと思っています。精神的なインスピレーションをくれる相手は友達でも親子でもいいわけだし、カップルである必要はないと思っていますが、もしそういうスピリチュアルなパートナーだと思う人が現れて結婚出来る状態であるならば、その人と普通に結婚して家庭を築きながら、物質的にも精神的にもお互い支え合いながら内観もすればいいと思うんです。
結婚できない状態ならそういう関係にはならない事です。肉体関係がなくてもメンターにはなれますし、インスピレーションも貰えます。
何故かそれが不可能だと思っている人がいたり、家庭を築いて子供を授かることも世俗的で内観を邪魔するという思想があるから、宗教家などは独身を貫く人が多いんでしょうね。でもそういう人でも密かに愛人がいたりしますよね。←
スピ系の人の中にはそういう婚外のパートナーの事を「ツイン」と呼んだり、「結婚してるのに本当のツインソウルに出会ってしまいました」といって愛人関係に発展する人も居るみたいですが、その実態は、エゴや欠乏感が肥大して、理想の相手を求めてさ迷っているだけの状態なので、そういう人と一緒になってもクンダリニー上昇は出来ません。
「スピリチュアルなパートナー」というのも、ある意味依存関係であり、「物質次元を支えるパートナー」と意味合いは変わりません。「どの次元で支え合っているか」という違いがあるだけです。
私は「独りで生きろ」と言っているわけではないし、地上で生きている人間が独りになることは実際に困難です。孤独な生き方をしていても、誰もが必ずどこかで支え合い、他人と協力し合いながら生きています。
でも、どうせ支え合うなら、依存ではなく、共栄でありたい。共栄と依存の違いは、支え方がポジティブであるかネガティブであるか(支え合うのか、取り合うのか)の違いです。
物質次元から高次の微細な次元まで、全ての次元においてお互いに支え合えて、尚且つ自己確立した状態で直観的なインスピレーションを授受しあえる相手に出会い、社会的倫理に沿って正式なパートナー(配偶者)になって、堅実な生活を営みつつ二人で子育てもしながら、互いに魂の錬磨もしていけるようになれば最高ですね。そんな人はなかなか居ませんけど、そこを目指さないで何を目指すの、って私は思っているので。
それが地上で実現できれば、高次と一体化するにあたって強力なグラウンディングになるので、存在次元が格段に広がるだろう、と、私とソラムは思っているわけです。実現できるといいね。(笑)
・ガイドを求めるなら、自己の存在の中に居る「もうひとりの私」を頼ること。
自分の中に居る「天使」「もう一人の自分」等が道案内やガイドをしてくれます。メンターにもなってくれます。本気で自分を信じて自力で神性に繋がろうと思っていれば、自己の存在の中から自然と、ガイドとなる「もう一人の自分」が現れます。どんな姿をしているのかは人それぞれだと思いますが。
私の最初のメンターはジェレミーくん(現在のセラ)だったのですよ。つまり自分の存在の一部が天使の姿で見えていたものでした。彼がずっと「見えない世界」の案内役を務めてくれていました。今は名前も変わって着ているものも多少立派になり、魂の経験も反映するようになって性格もだいぶ逞しくなりましたが、容姿はほとんど変わっていません。
途中から第三者の影響を受けて、一時は彼を見失っていた事もありましたが、求めれば必ず帰ってきてくれるんですね。セラに繋ぎ直すまでの間は、外部のメンターであるソラムにお世話になりました。
本当に自分の存在の内側だけを見つめて内観をしていると、他人は途中から全く当てにならなくなります。最初から自分の中にいる男性性や女性性、インナーチャイルド、72天使等に繋がって道案内してもらうのが最善だと私は思います。
他人を頼ると遠回りになるし、他人の思惑や他人のエゴも関与してくるので、本人にその意図が無くても、知らない間にコントロールされている状態になっているなど、精神的危険が伴います。「地上の私(顕在意識)」が知らない間に無意識を傷つけられていたり、無意識レベルでエネルギーを搾取されてしまうこともあります。
ツインのように信頼している第三者に頼るのも危険です。偽者(意識レベルの低い存在)が、「信頼する人の姿」を借りて現れる事もあるからです。「私は君だよ」と偽ってくる存在も居ますので注意が必要です。
自己の神性を掴む為の探究に限っては、信用できるのは自分自身だけです。これも私の経験則です。
以下は自分以外の第三者が無意識層で関与しているという前提での話ですが、
無意識層で危険(悪意のある念や罠)に遭遇したとしても、精神の均衡が保てていれば、「これ以上は危険だ」という判断が自分で出来ます。それは予感のような形で現れるかもしれませんが、そういう時こそ自分の直観を信じて決断し行動すれば、危険を回避できます。
迷った時は、現実の倫理に即した判断を下す事。
そこで一旦、無意識層から離れて距離を取り、時間を置いて、改めてリトライすればいいです。焦る必要は全くありません。一週間、一か月、数年以上内観をお休みして間が空いても「後退」する事はありません。少し前進が止まるだけです。いや、前進の速度が遅くなるだけです。お休みしている間に、無意識層が混乱から解放されていきます。むしろ混乱している時に一度お休みすると、霧が晴れたように視界がスッキリしてサクサク前進できるようになります。
混乱が解けたと感じたら、第三者を関わらせないと強く意識し、センタリングを強化してからリトライしてみてください。
自分以外の第三者がメンターになってくれる場合もあります。が、私の経験上、第三者がメンターになるのは、その第三者との共通の経験(過去生)を癒す必要がある時と、明らかに「自己存在の外側」から危険が差し迫っていて援護が必要な場合です。
私以外の存在で私のメンターを務めてくれているソラムがそのような時に支えてくれたので、その経験から書いています。ソラムは元々私への過干渉を好まないというか、関わり方を心得ているようで、私が自力で乗り越えなければいけない時は何もせずじっと傍観しています。少し離れた所で傍観してるのが見えるんだもん。。今もですけど。(笑)
他人の「内観」を垣間見たとしても、くれぐれも他人に対する干渉はご法度です。助けるつもりで干渉したとしても、それは本人に混乱をもたらすだけで何の助けにもなりません。
「共通の経験(過去生)」を癒すのだって、自分ひとりでやろうと思えばできるんですよね。自分の心の処理をすればいいのだから。「あの人との事を癒さなければいけない」からといって、その当事者を探して会う必要はないと私は思っています。出会ってしまったならしょうがないですが。
第三者との共通の経験を癒す目的で支えあう時、そこに相手に対する「見返りを求めない愛情」と「贖罪の意志」がある事、「癒されて幸せになってほしいという感情」がある事が大前提です。少しでも相手に対する恨みの感情が残っているままだと、その支え合いは傷の上塗りになります。
第三者をメンターに選ぶ場合、本当に自分に対してネガティブな感情を持たない、精神的に達観し鍛錬された相手でないと危険であると私は思っています。よほど正確に私の心的状況を把握し、尚且つ私を傷つけない相手でないとダメですよね。そんな他人は滅多に居ません。親子でも夫婦でも難しいです。それならプロとして経験を積んでいる有資格カウンセラーに話を聞いてもらう方がまだ良いと思います。
でも最終的には、自分の心は自分で癒すしかないんですよ。自分の舵取りは自分でするべきなんです。
他人は自分の写し鏡にはなってくれますが、自分と全く同じではないので、自分を完全に理解する事は出来ません。自分を完全に理解できるのは、最終的には自分だけです。
って書いたら、ソラムが嬉しそうにニンマリ微笑んでやがるなぁ。畜生。。w
・インナーチャイルドの尊厳を守り、意志を尊重する事。
インナーチャイルドはハイヤーセルフに次ぐ心の「羅針盤」です。ハイヤーセルフよりも身近に感じられるので感知しやすいし、インナーチャイルドをハイヤーセルフの代理とする事も出来ます。
ただ、コンプレックスや心的外傷等のトラウマがあると、インナーチャイルドが正常に機能しません。「内なる神性」へ辿り着く過程でそれが障害になっている場合、ここで自身のコンプレックスやトラウマを克服する必要が出てきます。つまり、傷ついている自分を癒す作業が必要になります。
私に対する自戒のような内容ですが、現実世界(三次元)でも無意識層(アストラル界)でもインナーチャイルドが苦しむような内容には関わらない事です。
・ただ純粋に自己の最高次の神性を求め、目指すこと。
これは世間でもよく言われている事です。スピリチュアル業界でも、宗教界でも基本となっている考え方です。
つまり「エゴ」を克服し、雑念を排し、「無」になる事です。
恐れや不安、恨みごとや悩み事、アレが欲しいコレがしたい等の欲求、「自分の思い通りにならないと気がすまない」という強すぎるコントロール欲がある状態では、「自己の神性」にはまず辿り着けません。神性に辿り着く道のりの過程で、それらはひとつずつ解決して手離していくしかないです。「地上の私(顕在意識)」が無欲になるというよりも、自分の無意識層を世俗的な欲(エゴ)でコントロールしない、低俗な我欲でコントロール出来ない状態になっておくことが肝心であると感じます。「どう転んでも無意識層ではネガティブな方向にエネルギーが向かわないんだ」という状態になってるのがベスト。言い方を変えると、何があっても「条件反射的に攻撃に転じる事がない思考」になっている事です。
これが出来ていないと、無意識のうちにネガティブな念を飛ばして誰かを傷つけてしまいます。サイキックな人が反射的に攻撃するような思考を持っているとどうなるか、想像に難くないと思います。
口で言うのは簡単ですけどね。(笑) 宗教家はここにすごく力を入れてますよね。
だからまあ。。これは一つの例えとして書きますが、魂の色がインディゴだと言われる人は本来穏やかな性質で、自分の正義に照らして許せない時にしか攻撃的にはならないし、クリスタルといわれる人は自己犠牲的だと感じるほど懐が深いので、傷つけられても滅多な事では攻撃には転じません。
クリスタルが本気で怒る時って。。「よっぽど」の事があると逆に自分を責めてしまう事が多いんだよね。だからクリスタルが攻撃に転じるのは、自分で自分が許せなくなった時だけです。その怒りの矛先は大抵自分自身に向かいます。クリスタルは「自分が悪い」と思いがちなので。
つまり、自己存在の一番高い所、自己の神性を目指す過程で自己の存在も拡大していき、顕在意識で扱わなければいけないエネルギーも膨大になっていきますが、そのエネルギーを安全に正しく扱う為に「無」である事が必要になります。エゴで他人を傷つけるような思考感情が残っていると、「今の顕在意識(地上の私)にこれ以上大きなエネルギーを扱わせるのは危険」とハイヤーセルフに判断され、「安全弁」が働いて存在の拡大もストップしてしまうから、結果的に「自己の神性」にも辿り着けない。という感じです。
「恐れ」が残っている時も、「これ以上先に進むのが怖い」という理由で、存在の拡大が阻害されます。いわゆる「ブロックがある状態」です。
だからサイキック能力やエネルギーを魔術的に扱いたいという場合でも、自己の神性に辿り着いて軸を掴みたいという場合でも、まずは雑念を取り除いて自分勝手な欲や恐れ(エゴ)を克服し、何が起きても冷静に感情エネルギーを制御出来るように思考力と判断力を訓練する所から、まず始めないといけない。。という事になります。
ただ無欲でいればいい、寛容でありさえすればいい、というわけではないので。。その感覚は自分で掴むしかないですね。
・現実生活において、生きる楽しみを持つ事。
「俗世を排せよ」みたいな話をした後でナニですが、これはグラウンディングの為です。「見えない世界」に没入しすぎると、単なる浮世離れでは済まなくなり、物質次元(三次元)を生きていく事に興味がなくなり、希望を見出せなくなったり、生きる事に困難を感じて自死に至る可能性もあります。
「地上の私」が無意識層と対峙する(自分自身と向き合う)と大幅にエネルギーを消費・消耗するので、三次元で生きる為に必要なエネルギー(気力と体力)を残しておけなくなってしまいます。
地上(肉体次元)でしっかりと体を動かし楽しみながら生活する事で、肉体次元でエネルギーを回復する事ができます。
心から楽しめる趣味を複数持つ事や、現実世界で信頼でき支え合えるパートナーと家庭生活を楽しむ事はいい事だと思います。地上での生活が潤うと、物質次元でポジティブなエネルギーを生成し、グラウンディングに役立つ活力を蓄えられるようになります。
グラウンディングとセンタリングが出来ていないと、「地上の私(顕在意識)」はハイヤーセルフや自己の神性(無意識層)と対等に渡りあえません。エネルギー的にも完全に無意識層に負けてしまいますし。
顕在意識が無意識と対等に渡りあえない(均衡を保てない)と、「地上と天上の真ん中で中庸を保って自由になる」なんて無理です。
食事もちゃんと摂らなきゃダメですね。野菜中心の食生活の方が脳の為には良いそうです。菜食にすると抑鬱も改善するという医学的データもあるらしいですが、菜食に切り替えても栄養バランスが崩れるようでは全く意味がありません。植物性蛋白質とビタミンB群は意識してしっかり摂るのが大前提です。そうでなければ脳に必要な栄養が足りなくなり、逆に鬱が悪化します。
睡眠もしっかり取ってください。身体が弱っていると高次には接続できません。
・自分の闇を否定しない、自分の光を恐れない。
逆も言えますね、「自分の闇を恐れない、自分の光を否定しない」。
光に偏りすぎると闇を引き寄せます。その逆も然りです。魂が陰陽や高低のバランスを取ろうとして真逆のものを引き寄せるんですね。高次にばかりアクセスしすぎていると光側に偏り過ぎて闇を引き寄せますので、バランスを取る為にも物質世界(三次元)での生活を大切にし、楽しみを増やす事は大切だと思います。あと、これは逆パターンですが、世俗的なものに偏り過ぎたり、闇に偏り過ぎて人を欺いたり不誠実なことをし続けている場合は、自分の外側から光を引き寄せて思考感情パターンを改めるよう喝を入れられる出来事が起こりますので気を付けてください。
人間なら誰でもポジティブな側面とネガティブな側面の両方を持ち合わせています。自分の存在が持っている性質の片方だけを頑なに「無かったもの」にしてしまうと、自己存在の中でエネルギーバランスが崩れて、「無い」事にしている要素を補おうとして外側から引き寄せてしまいます。例えば、自分の中の「闇」をなかったことにしてないがしろにしていると、外側から闇を引き寄せて嫌な思いをする事になる。という感じです。でも実は、自分の存在の中の闇の部分が、「闇の自分にも居場所をくれ」といって自己主張をするので、それが外部から自分と同じような闇を引き寄せるんですね。
何事もバランスが大事。掌握できる存在次元が小さかろうが大きかろうが、「均衡を保つ」という原則は同じです。
存在の振り幅が広がる(存在が拡大する)と、「地上の私(顕在意識)」はその大きさの分だけの深い闇と高次の光を扱えるようになる必要に迫られます。でも存在が拡大されたという事は、「地上の私」はそれだけの質量を扱えるようになってるよ、大丈夫だからチャレンジしてみ?、と言われているという事ですね。
自分の中の光と闇、陰と陽、男性性と女性性、地上と天上とのバランスをきちんと取って、もしくはちゃんと受容して受け入れていれば、外側から厄介なものを取り込まなくなりますので、その分自分を整える作業も楽になります。自分の存在の外側から取り込んで補わなくてもいいように、普段から自分が持っている性質全てを受容するよう心がけておく事が必要になります。
「闇(低次元でネガティブな自分)を否定する」っていうのは、「自分の醜い部分や情けない部分、他人を傷つけるような酷い自分」の事だから想像しやすいと思うんですけど、「光(高次元でポジティブな自分)を恐れる」というのは、「私はそんなたいそうな存在じゃないし重責負えません無理です、自信ありませんから誰か私の代わりにやって」っていう状態ですね、私の経験で言うと。
・「汝自身を知れ」
結局最後はこの言葉に尽きる、と思って引用しました。
古代ギリシャ時代からある言葉ですよね、これ。
私はこの言葉を、「イメージングや内観を本格的にやり始める前に、自分の性質を頭や感覚でしっかりと把握しておく事」という意味で使います。
「自分探し」という言葉も一時期流行りましたが、私は、自分自身の隠れた性質や目をそらしていた欠点などをあらかじめ分かっておいた方が、内観作業も安全に行えると思っています。その為にも「72天使パーソナルチャート」を活用して頂けたらと思います。本格的な内観の前に、まずは自分自身の性質を把握する所から入るんです。他にも占星術とか、数秘術とか、自分を知る為の方法は沢山あるので、それらと併用すると、いろんな角度から自分の事が解っていいですね。
私は、このイメージングを伴う内観作業で「自己の神性」を掴む際には、72天使と生命の樹を活用(併用)する事で、無意識層で遭遇する危険をある程度回避し、安全に内観作業を行えるのではないか、と思っています。イメージを伴う自己内観をする際には、72天使を活用して頂けたら、と思います。
所感
こういう内観作業を始めるときって、人生の大きな転換期だったりします。そうではないという人も居るかもしれないけど、私自身はそうでした。
生きていく為の環境が大きく変わったとか、これまでの人生を大きく変えるような出来事に遭遇したとか。そういう時には、もう一度自分を「再構築」し直さなきゃいけない。
私が、「アクティヴ・イマジネーション」という技法がある事を知らないまま、その技法とほとんど同じ方法で「自分探し」をし始めた時、私は抑鬱で苦しんでいました。私は鬱を克服するためにこの内観を始めたんです。当時は鬱になった原因を見つけて根本的に完治する事しか考えていませんでしたが、最終的には「自分を作り直す」という作業をしていたようだと気がつきました。
これまで自分を縛りつつも支えてきた既成概念と価値観を破壊して覆し、「本来の自分の姿」を求めて自分自身と向き合い、魂の奥にある「自己の神性」に辿り着いて自分だけの軸を掴む作業は、「これまでの自分を作り変える変容の為の作業」であり、「変容し生まれ変わる為の作業」だとも言えます。結局私はその為にこの作業をやって来たのかな、と思います。そうしないとこの先、地上で生き残れなかったからです。
と。
ここまで長々とユング心理学の技法に基づいた内観法を語っておいてナニですが、
私が今生で学んできた心理学の中で一番好きなのは、エリック・バーンの交流分析と、認知行動療法だったりします。(おい)
いや、私はユングの全部を肯定しているわけではないし、今の時代に沿わないものや、私に向いていないものは切り捨てて、有用なものだけを活用するという方針は変わっていませんから。他の哲学や心理学を参考にする際にもその方針は変わりません。
私はユングの著書を全部読んだわけではないので、間違っていたら申し訳ありませんが、ユングは「個人の神話」を超えた先にあるものを体験したことはあるのかな? と少し疑問に思ったんですね。
即ち、「神話」として人間に認知されている次元(とあるスピ的尺度では10次元)の、その先にある宇宙と、「全一性」の世界です。
言葉で言ってしまうと、簡単すぎて逆に伝わらないものなんですけど、バーンやアドラーなどは、自分たちの心理学を突き詰めた先に「個人の域を超えた宇宙」や「宇宙を含む全体との繋がり」を感じているじゃないですか。(実際に彼らがその次元に辿り着いたかどうかは知りません)
「神話」の次元についてはユングも多くを語っているし、私自身もその次元を経験したので知っていますが、「神話の世界」も個人を超えた集合無意識の一つであることは確かです。でもそこでユングが「個人の神話」という、あくまで「個人」にこだわった理由は何だろう。全体の中で「個」を確立する為にそこを強調しているだけで、ユング自身は「全一」の次元を体験していたのだろうか。
私も、全体の中で「個」を確立する事は大切だと思っていますよ。でないと地上で生きている意味がありませんから。
「神話の世界」って、伝承を紐解いてみても、よくよく読むと残酷な内容が多いですよね。無意識層で遭遇する「神話の世界」もとても辛くて苦しい体験です。「犠牲になる」「犠牲を捧げる」ような辛さです。実際にそういうイメージを見たり感じたりします。
具体的にどんな形で「辛さ」が襲ってくるのかは人それぞれだと思いますが、私の場合は、女性の立場で身も心も自分の人生も全て捧げるようなイメージの「神話」で、クンダリニー的要素の強い「犠牲」でした。私の「神話」が具体的にどの神話に基づいているのかは伏せておきます。
ユングが、その「ユング自身の神話」の世界に辿り着いた所までは、本で読んで私は知っていますが、そこを乗り越えてから更に先へと進み「宇宙と全一性」の次元にまでたどり着いたのか、それとも「神話の次元」を経験した後は下次元へと引き返してきたのかは、私は知りません。
まあでも、ユングがそれを体験したのか、知っていたのかは、実際にはどうでもいい話です。
重要なのは、
辛く苦しい「犠牲」を捧げて得られる「個人の神話」の次元の先には、ハイヤーセルフさえ合一された「全体の無(愛)」があるよ。いや、「無(愛)」しかない所に辿り着いてしまうよ。そこが究極の「真理」がある場所だよ。
という事の方で、私はそれが言いたかっただけです。
これを言葉で表現してしまうと本当に味気なく、何も伝わらず、「なーんだ、何もない(無)なんだ。それだけの事か」となってしまうのですが、自力でこの次元に一度でも辿り着くと、本当に一生忘れられない体験になります。「いつまででもそこに居たい。下の次元にはもう戻りたくない」って思うくらい、全てが満たされるんですよ。
私が体験したその「真理」の場所は、それくらい、「何も無いのに満たされる」「愛の粒子しか存在しない場所」でした。
更にその先に見える光に飛び込むと溶けてなくなっちゃうな。と私は感じたのですが、そういう次元です、そこは。
おわりに
この記事を書こうと思ったのは、私の「内なる神性」であるラファ(現在のセラ)に、
「あなたがこれまで経験してきた事をありのまま書けばいいです。書く事で救われる人も居るから書きなさい。約束ですよ」
と念押しされてしまったからなんだけどね。
記事にするにあたって、記録のメモを構成し直したり、適当な文面になるよう校正するのに時間かかっちゃいました。
私は口が悪いんですよ。(笑) 思ったまんまの口語状態で公開しちゃうと、表現が一方的すぎて誤解を招くでしょうよ。これでも一応努力はしました。(笑)
ていうか頭に浮かんだことを逐一書き留めるのに何日かかったんだよ今回。。実は新月からずっと書いてましたこれ。。ちょっと今回は自分的には濃すぎた。キャパを試されてるのか私は?って感じでした。orz
まあ、アレだよ。7年間の要点要約を一記事でやろうってのがそもそもの間違い。←
この記事だけで薄い本一冊出来ちゃうよ。(笑)
この記事に書いてきた事は、私が「星紡夜話」や「独白」カテゴリーを書いていた期間、自己内観の過程で、心身を追い詰められつつ、地べたに這いつくばって死にもの狂いで血だまりを進むような心境を経ながら。。実際に上の次元でそんなイメージを垣間見ながら、自分の経験で得てきたものです。今回は「技術」に絞って書いてみましたが、書き洩らしを思い出したら、紙の本にまとめる時に追記します。
今回書いた内観の「技術」以外の事は、またいずれ書く機会があるんじゃないかと思います。
以上で「星紡夜話」から続いてきた「独白」カテゴリーの総まとめと、新しく始める為の前置きを終わります。
長文にお付き合いありがとうございました。